華城(はなぎ)の史・旧跡
   

この華城の史跡・旧跡のページは「華城の歴史を勉強する会」が作られた資料を基に作成しました
      
 
 
     なまず公園

大なまず」は、華城コミュニティのシンボルマークとして使用されている。

なまず公園(左の写真)

  桑山西方の井上山は、旧藩士井上氏の給領地(きゅうりょうち)であった。その北西の(ふもと)に大きな沼があった。その沼の水かえと井上氏の祝い事と衰退にまつわる和尚なまずの伝説がある。

 市民に親しまれる憩いの場として沼があった場所に、大なまずの像を据えた公園が作られた。

日輪寺経塚遺物(にちりんじきょうづかいぶつ)(右及び下部左右の写真)

 桑山八幡宮の社坊(しゃぼう)
(神社の中にある寺)の日輪寺で、慶応年間(1865〜1868)に発見された経筒(きょうづつ)法華経(ほけきょう)石塔(せきとう)がある。
法華経は奥書(おくがき)によると
保延(ほうえん)6年(1140)僧侶の厳勝(げんしょう)が母の現世安穏(げんぜあんのん)後世菩提(ごせぼだい)を祈願して書写したものである。

 写経文字が明瞭に残っているので防長における代表的な経塚遺物として注目され、「仁井令」の地名の初見のものである。


 この石塔、経筒、法華経の3点は昭和
42年に防府市指定有形文化財の指定されましたが所有者は個人のかたです。

経塚(きょうづか)とは
 仏教経典を後世に残し,また極楽往生・現世利益を願って経典・経筒・経石・経瓦などを埋めた塚。上に五輪塔を建てたりします。



石塔(せきとう)

高さ250cm


経筒(きょうづつ)
高さ20.7cm、口径5.8〜6.1cm
蓋が欠失


法華経(ほけきょう)

桑山八幡宮


桑山八幡宮

 神亀( じんき)3年(726)、豊前国(ぶぜんのくに)(現・大分県宇佐市)宇佐八幡宮から勧請(かんじょう)(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)して創建されたと言われ、祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)神宮皇后(じんぐうこうごう)である。村社として「仁井令(にいりょう)八幡宮」と呼ばれていたが、昭和39年「桑山(くわのやま)八幡宮」と改名された。

 祭日は旧暦8月17~18日であったが、5月17~18日に変わり、最近は、それに近い土~日曜日に行われるようになった。ご神幸の先頭を歩く「
やっこ行列」が名物行事となっている。

 境内には
素盞鳴尊(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)を祭神とする「八重垣神社」(旧号・牛頭天王(ごずてんのう)社または祇園社)などがある。


八重垣神社


伊佐江八幡宮


伊佐江八幡宮

 永和( えいわ)2年(1376)、仁井令八幡宮から分霊し、伊佐江中河内に祀ったのが始まりで、祭神は応神天皇と神宮皇后である。

 昭和19年(1944)旧陸軍飛行場の建設により現在地に移された。もとは仁井令八幡宮の
氏子(うじこ)であったが、永和の祭日に、言い争いが起こり分離したという。金佛弥陀(かなぶつみだ)坐像があったというが、現在不明

 祭日は9月17~18日であったが、現在は桑山・植松八幡宮と同じ。

 境内には「大歳神社」「稲神社」があり、1月14日に「
粥占神事(かゆうらしんじ)」がある。女竹4本を紐で縛って釜に入れ、ゆっくりと粥を炊き、竹に入った粥の具合を見て作況(さっきょう)の良し悪しを占う。


地蔵堂(薬師堂)地福寺

東門山「地福寺」という古跡があり、境内の十王堂に、十王の前で鬼が亡者の罪業の軽重を評定して呵責する木像があって「業の秤」と呼ばれていたと伝えがある。

それらの木像が、堂内に置かれており、中央に薬師如来が安置されているので、薬師堂とも言われている。
 
     
      地福寺


植松八幡宮






      
      泥江神社


 防長風土注進案(ふうどちゅうしんあん)には「正保(しょうほう)(1645〜1648)3年泥江開作築立の際潮止困難のため吉敷郡經富村高倉山願成寺抱荒神社を地主に勸請し祈願して漸く其功を竣へたりと云う」とあります。

 明治41年3月5日に植松八幡宮境内神社となりました。


植松八幡宮


 寛喜( かんぎ)3年(1231)に植松村下河内(西行の森:華城郵便局の南)に豊前国(ぶぜんのくに)(現・大分県宇佐市)宇佐八幡宮勧請(かんじょう)( 神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)して創建された。
 祭神は「応神天皇(おうじんてんのう)」「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」「神功皇后(じんぐうこうごう)」の3柱とも言われている。

 応永( おうえい)2年(1522)に『鯖川の岸に移すなら水害とまむしの難から村民を守る』とのお告げにより、御手洗(みたらい)(大崎橋東側堤防下)に移されたが、平成8年(1996)佐波川堤防改修により現在地に移された。

 祭日は旧暦8月14~15日であったものを昭和の初めに5月17~18日に変わり、現在は、それに近い土~日曜日となっている。

 例祭の前夜祭で清めの神事として「湯立神事(ゆだてのしんじ)」」が行われる。

 境内には、山口高倉山の荒神社を勧請したという
泥江神社(本殿西側)や、産神様(本殿東側)がある。 


         参考資料
1.植松八幡宮略記
2.防府地方に於ける湯立の実績と
 植松八幡宮の湯立神事について
 
 周防一の宮玉祖神社吉野正修宮司作成
  


 

   植松八幡詞假山記碑

この碑に書かれております「金石文」については「私のふるさと華城のページNo4」の「金石文」の目次5(7頁)をご覧ください




        
  
   産神様

 祭神は「嫁魂命」でお乳の神と
して尊崇(そんすう)を受け、産婆または祖母に抱かれ初詣が行われた。
 石祠(せきし)の後の自然石に刻まれ象形が信仰の対象になっていたということだ


玉祖大明神
 


 
永正(えいしょう)3年(1506)大崎の玉祖神社(たまのうやじんじゃ)から勧請した玉祖命(たまのおやのみこと)を祭神とし陰暦11月16日であった。

 昔、御神幸(ごしんこう)
遷宮(せんぐう)や祭礼に際し,神体が神輿(みこし)などに乗って新殿や御旅所・祭場に渡御(とぎょ)すること)の時、田島村の氏子が口論してご幣を持ち帰る途中、安置し休息したが、その場を神聖な所として、大塚村の人々が(まつ)ったと言われている。

 陰暦11月16日の祭日に、人々が集まり、宴席で、その年の珍事や吉凶を記した「玉祖神社御縁記」が残されている。

 本来の位置は、もっと南側であったが、旧陸軍飛行場建設に伴い、現在地に移された。

         

    玉祖大明神


厳島大明神
(厳島社)
 

 開作の年代は明らかでないが、佐波川端に突き出た塩田があった所。

 祭神は
田心姫命(たごりひめのみこと)湍津姫命(たぎつひこのみこと)市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神として、厳島(いつくしま)から勧請(かんじょう)と伝えられているが、現在は、植松八幡宮に合祀され、社号のみ残している。

 この厳島社址のある塩屋原は、
天正(てんしょう)18年(1539)には地名が見られ、佐波川端に突き出た塩田があった所である。

            

       厳島社


大歳神社


 
応永(おうえい)18年1411)大歳神(おおとしのかみ)を祭神として伊佐江の清水川の辺に創建されたが、寛文(かんぶん)11年(1671)地神堂開作の堤防に遷座し、「猿石大明神」と合祀(ごうし)したと伝えられている。

 土を司る
猿田彦神(さるたひこ)(地神様)をまつる神名が、いつ消失したたか分からないが、地神堂(じじんどう)の地名の由来と考えられている。

 明治41年((1908)に、大歳社は、伊佐江八幡宮の境内に移され、その
旧趾(きゅうし)石祠(せきし)が建てられた。

 祭日は陰暦11月17日であったが現在は、1月17日に近い日曜日と9月17日に祭事が行われている。
  
         

      大歳神社



松厳山 光宗寺

松厳山「光宗寺」


  本寺を京都西本願寺とする真宗本派の寺で、開基(かいき)(寺の創立)は、神保対馬守興胤の息子・弥三郎景胤(浄覚)である。

 毛利元就( もうりもとなり)に従い、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)に仕えていたが、出家し毛利氏の防長移封後、大塚に来て、慶長(けいちょう)10年(1605)浄貞という庵地に寺を建立した。

 天保( てんぽう)2年(1831)小鯖村の佐波山皮番所(かわばんしょ)で起きた騒ぎがきっかけとなって、長州藩を揺るがした天保一揆(てんぽういっき)の時、迷信に惑わされた農民が騒動を起こした場所といわれている。

宝慶山「妙玄寺」

 光宗寺の前にあり、
阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊とする真宗本願寺(しんしゅうほんがんじ)派の寺で、光宗寺3世正順の2男・吉武弥左衛門の子である正海が開基(寺の創立者となっている




宝慶山 妙玄寺

二宮就辰(にのみや なりとき)の墓

 
毛利元就(もうり もとなり)の6男と言われているが、二宮土佐守春久の嗣子(しし)(あととり)として、安芸国郡山(あきのくに こおりやま)(広島県吉田町)で生まれた。

 永禄( えいろく)6年(1563)に元就に仕えて以来、元亀(げんき)3年(1572)、太郎右衛門尉となり、毛利輝元(もうり てるもと)の下で領国全般の庶政を担当し、特に財政面に尽力した。

 普請奉行( ふしんぶぎょう)(お城の新築・修理や土木工事を担当する役職)なども務めたが、慶長(けいちょう)5年(1600)毛利氏が防長2カ国に移封後、周防国佐波郡伊佐江村に居を移した。

慶長12年(1607)、59才に没した。伊佐江開作地内の門田の森に葬られたが、お墓は飛行場建設に伴い、現在地に移された。
   
 

    二宮就辰の墓 


森鷗外の父

 森 静男 生誕地跡


  明治の文豪、森鷗外(もり おうがい)の父親静男は天保6年(1835)、周防国植松村の大庄屋・吉次定正の5男として誕生した。

 幼名は吉五郎、18才に良作と改名。医学を志し安政元年に石見津和野藩医・森白仙
1861年11月7日参勤交代にしたがって国へ帰る途中近江国で病死・森鷗外の母方の祖父)に師事し、泰造と改名、人柄が見込まれ安政6年(1859)白仙の娘ミ子(峰)の婿養子となり、名を静泰(静男)と改めた。

 文久( ぶんきゅう)元年(1861)津和野藩亀井家の典医(てんい)(江戸時代に将軍家や大名に仕えた医師)の地位を継ぐ。翌文久2年1月19日、長男林太郎誕生、後の軍医で文豪の森鷗外である。

 明治5年旧藩主亀井氏の侍医(じい)(天皇や身分の高い人の専属医師)として家族と共に東京に出る。向島小梅で侍医を務めながら自宅で患者の治療をした。

 明治12年東京府庁より郡医に任ぜられ、千住で医療活動を続けていたが、明治29年4月4日61才で生涯を閉じ、東京向島の弘福寺に葬られたが関東大震災のあと、東京三鷹村の禅林寺に改葬され、昭和28年に分骨し津和野町の永明寺(ようめいじ)に墓が建てられた。
    
   

      森静男生誕地跡
 生誕地碑揮毫(きごう)(ふでを(ふる)うの意)は森鷗外の長男於菟(おっと)(1890〜1967)さんです。


 明治5年7月31日、津和野を発った森静男(38歳)と林太郎(11歳・後の森鷗外)親子は3日かけて植松にあった静男の実家吉次家に到着。1週間滞在して、三田尻港から船で上京したそうです。

 碑は林太郎(後の鷗外)も泳いだ「団平川(だんべいがわ)」の方を向いています。


古い道標


 前開作交差点、原田商店のすぐそばにある古い道標です。古いといっても比較的新しくて、「昭和五年四月 佐内藤一 立」と書かれております。

 写真は東方面からみたものですが、「北 大道小郡 道」と書かれております。すなわち、東方面の
三田尻(みたじり)方面から来た人が、ここから「北」へ向かえば、「泥江の渡し」を舟で渡って、大道小郡へ行けるという道案内です。

 写真の右側の面(すなわち北側の面)には、泥江の渡しから来た(すなわち大道小郡方面から来た)人への道案内として「左 三田尻 右 西ノ浦道」と書かれております。

 

     古い道標

 

大崎の渡しのモニュメント(記念碑)には右記のように書かれています。







 

泥江の渡しのモニュメント(記念碑)には右記にように書かれています。


大崎(おおさき)の渡し


  古代から近世にかけて、九州往還の重要な道であった「山陽道」は一時期を除き、この「大崎渡し」で佐波川を渡り、大崎~古祖原~千日~今市~宮市を通っていた。

 藩政初期の万治三年(1660)、作事方(さくじかた)
(江戸時代,萩藩の建築工事をつかさどった者)より大崎の庄屋市兵衛に川平駄船一艘が交付されその時の渡船賃は公用を除き、一人五文馬十文と定められている。

 この渡しは昭和10年代中頃まで人々に利用されていたが、その後明確な廃止の年代は不明であるが昭和31年(1956))に「大崎橋」が架けられた。


泥江(どろえ)の渡し

  宝暦から明和年間にかけて、鶴浜・大浜などへの開作築立が行われ田島
宰判(さいばん)に関して萩藩への往来が頻繁になってきた。

 明和元年(1764)、川端に住む幸助が、自分の所有船で渡船を始めた。流れや川幅の変動により、渡し場の位置がたびたび変わったり、渡船業も西開作住民に引き継がれたりしてきたが、明治23年(1890)に、「中関橋」が架けられて、渡船は一度廃止された。

 しかし、明治35年(1902)に橋が落ち、翌36年(1903)右田・華城両村の共同経営による、渡船は復活した。

 昭和28年(1953)「佐波川大橋」が竣工したのを機に廃止された。




大崎の渡しのモニュメント











泥江の渡しのモニュメント